知的障害を持つ子供たちの受け入れは、何故求められたのか?

愛媛県の高校入試について家族会が知的障害者への配慮を申し入れる
http://mytown.asahi.com/ehime/news.php?k_id=39000000901160002
1月15日県教委高校教育課へ
  特別措置について要望しました
http://home.e-catv.ne.jp/palet6/s3-3.htm
知的障害者をめぐるお題ふたつ
http://d.hatena.ne.jp/Britty/20090122/p1

こんな要望をしている方々がいるようである。
http://home.e-catv.ne.jp/palet6/s3-3.htm
より。

      要 望 書

 愛媛県教育委員会       平成21(2009)年1月15日

 教育長殿

         愛媛・知的障害児の家族と理解者の連絡会


 平成21年度愛媛県立高校入学試験には6名の知的障害児が普通高校を受験します。そこで以下のことを要望します。
(1)知的な障害を持つ子どもたちであっても、県立普通高校で学びたい希望を持つ者については、受け入れて教育をするつもりで県立普通高校の門戸を開けてください。
(2)知的障害児に対する特別措置については、障害による不利益を補う形で検討、実施してください。
 以上、よろしくお願いいたします。

この要望や、上のリンク先の記事などを読んだ範囲では、
何故、こういった要望が出てきたのかがわからなかった。

要望書が掲載されたページには、

逆差別とか合理的配慮とかというものは、このようにとらえられるのかと思うと、少しだけ疲れるものがありました。

という記述もあり、
何か伝えたいけど伝えられない理由があるのかもしれないと、考えてみた。


勝手に考えただけで、おそらく全然合っていないのかもしれないとは思うものの、
こういう理由であれば、
僕ならば少なくとも検討をした方が良いと考える理由を思いついたので、記載することにする。

なぜ普通高校への入学を希望する知的障害児を県立高校に受け入れる必要があるか?


それは、大きな目的でいうと知的障害児のためであるが、
短期的には「知的障害児」でない生徒のためが「知的障害児」について学ぶためである。

前提

以下のことを前提とした。
・知的障害を持つ人が存在する
・知的障害を持つ人は学力が低い
・高校という場は学力の向上のみを目的とした場ではなく、人間性を養う場でもある
人間性とはさまざまな人間との接し方を含む

考えたこと

「知的障害児」という社会の一員と接する機会が少ない。
なぜならば、学力のみで切られると、学力の低い知的障害児は、
構造的に学校に入ることができないからである。


身体に障害がある場合には、学校に入学することができ、
生徒たちは、身体に障害がある人との接し方を学ぶことができる。
しかしながら、学校には、その入学条件のために、
「知的障害児」は入学することができない。


このため、生徒が「知的障害児」について学ぶ機会が極端に減る。
そうすると、学ぶ機会のない知的障害を持つ人たちとはどういう人か、という事について、
十分な理解がされないまま、差別がおこなわれるようになることを誘発することを
心配しているのではないだろうか。


つまり、知らないがゆえに、
こわがったり、
何かを頼もうとおもわなかったり、
気持ち悪がったり、
することを誘発するのではないだろうか?


と、ここまで考えて、
自分は「知的障害」があるのかもしれない、という人と接触した機会が
なかったなーと思った。
こと、会話をした記憶となると、
いつが最後であったかすら思い出せない。


こういう理由があるので、入学させるべきだ、とまでの結論はでなかったが、
こういう理由については検討する余地があると感じた。

おまけ

要望書のページへのブコメで、

y_arim education, handicapped, racism 「特別措置の中身は、県立高校の合格点を下げて入学させてくれということなのですか。」「逆差別とか合理的配慮とかというものは、このようにとらえられるのか」これを無視か>id:rev-9 id:ryokusai id:dioscuri id:jksy id:biaslook 2009/01/18

といっている、id:y_arimさんは
「特別措置の中身は、県立高校の合格点を下げて入学させてくれということなのですか。」「逆差別とか合理的配慮とかというものは、このようにとらえられるのか」について、どのように考えたのかな、
とふと思った。
よかったらコメントなどで教えてくれるとうれしい。

追記

よくみたら、引用されていた
http://d.hatena.ne.jp/islecape/20090119/p9
で、もうちゃんと書いてあった。。
そして
http://d.hatena.ne.jp/Britty/20090122/p1
でもちゃんとふれられていた。。。

知的障害を持つ人が、進学校に"いる"ということ

先のエントリーを書いて、
そして、
高校はもう高等教育じゃないだろを読んで、
知的障害者をめぐるお題ふたつをもう一回読んだり((というより、先の良く読んでない件もあるので眺めて、といったほうが良いのかもしれない)して
入学する知的障害を持つ人にとってはどうなんだろう、とまた考えてみた。


考えてみたところ、
やっぱり知的障害を持つ人の気持ちというのは、
僕には想像が極めて難しく、
そしてもちろん移入することもできなかった。


あまりに、知らなすぎる。


そしてまたつらつらと考えてみたところ、僕なり今考えた範囲での

結論は

知的障害を持つ人は
進学校にいたほうがいいんじゃないか、という事だ。

なんでかっていうと

やっぱりそれはid:ryokusaiさんの先のエントリーへのブコメにあった「教材」としての意味になってしまうんだろう。
ただ、それを「教材」というのであれば、教師も同級生も「教材」だし、家庭も、そして道ですれちがう他人も「教材」だ。
僕個人に関していえば前述のものよりも小説が「教材」だった。*1
ああ、そして、トラックバックは送ったおぼえがないなーとおもったけど、引用の中でidcallしていた事に気がついた。

前提ふたたび

  • 役人だったり、政治家だったり、大企業のサラリーマンだったり、そういう所にいく人の中には、進学校を経ている人がおおい。
  • 役人や政治家や大企業のサラリーマンは、そうでない人に比較して知的障害を持つ人にあたえる影響の期待値が大きい。

ああ、今回のエントリーはこれにつきてしまうんだろうな。

考えたこと

前提でほとんどなんだけど、だったらやっぱり分かっておかないと、ということだ。
それも、教材*2として、
つまり、自分の外のものとして、
ではなく、自らの生活圏のなかの体験として分かっておいた方がいいんじゃないかなと考えた。


実は前職でお世話になった方のお子さんが、知的障害を持つ人だった。
僕は、その、はなしのながい、そしてひょうひょうとしたそのおじさんの事が好きだったので、
時々知的障害を持つ人はどうしたら生活していけるか、と考えてみたりした。


でも、やっぱりわからなかったなー
なんてことをふとおもいだした。
何ができるかわからない
そういったわけで、もうちょいしりたいな、と。


んで、
知的障害を持つ人にとってはいいのか?
っていうのについては未解決で、
未解決なりにそっくりそのままいれるのは、
どちらにとってもよくないだろうなとも思うので
それはコストをかけて、専門施設のノウハウを活かせる方向にすすんでいってほしいなーって
思う。


思うだけでなく、
どうやったらそういう事ができるか、
ってことを考えて提案したほうがいいんだろうとおもうけど、
今日はここまで。

ノブレスオブリージュ的ななにか。

*1:あまりこのエントリーとは関係ない話だが。

*2:上述の「教材」ではなくて。