差別主義者である僕が差別について語る

最近、気にいっている、あおり系タイトル。
ホットエントリーからお邪魔した、
みすみす韓国側に引き渡すわけにはいかないかわいい在日女子の方のブログを見てちょっと思った事を書いてみます。


僕は自分が"差別"をする事を容認しています。
いやなんていうかせざるをえないんです"差別"。
"差別"しない自分なんてちょっと想像できないです。


僕のする"差別"は、
ある人種の人を前に、「やーい○○」って言ってみたりとか、
ある影響範囲の広い意思決定をするにあたって、「○○っていうのは□□だから」って思って決定してみたりとか、
そーいうのとはちょっとちがうんですが、
本質的に同じだ事だとおもっているんです。


ちょっと定義します。
"差別"とは、
「ある人のグループの一部について、
観察した、もしくは、伝聞により知った事実または事項にもとづいて、
その全体的な傾向を推定し、それを言動に反映させること」
と、します。


例えば
こないだイタリアに行った際に、
スリが多いから、ちょっと気をつけなきゃね!
って思って、財布をすこし奥の方にいれてみた事は"差別"だし、
初対面の人に自分の仕事について説明する時に、
学生の頃からの友達に説明する時よりも、比喩をまぜて丁寧に説明したり
する事も"差別"です。


とかいうと、
誰かが「それは差別じゃなくて区別です」とかいうかもしれないし、
「良い差別と悪い差別がある」とかいうかもしれないですね。
じゃあ、どんな定義がいいですか?


なんかそれって
「やなことをしちゃだめ」とか
「やなことをいっちゃだめ」みたいな定義になっていませんか?
なってなかったら是非おしえてください。


んでまあ
僕がする"差別"と、しない"差別"のちがいを考えると、
いわゆる"差別"の定義ができるかもしれないんですが、
なんでそもそもしなかったかというと
これがもう極めて主観的な事だからなんですね。


相手が許容すると主観的に思えない時に"責める"とか、
簡単に決定する事がふさわしくないと主観的に思う時に"決定"するとか、
極めて主観的なわけです。


ああ、なんともなにがいいたいかわからないエントリー。
差別とか、どーでもいいけど、
攻撃を目的にしないほーがいいんじゃない?
とか提案してみることにしよう。